大分移住手帖

スリランカから夫の仕事の縁でたどり着いた中津市での暮らし。

Tomomi Imai

取材者情報

お名前
ラージャパクシャ 杏奈
出身地・前住所
前住所:スリランカ・アメリカ
出身地:千葉県
現住所
中津市
年齢
31歳
家族構成
4人
職業
chandani spice kitchen
Instagram
https://www.instagram.com/chandani_spice_kitchen/

夫はスリランカ人のカラさん、妻は日本人の杏奈さんという国際結婚のご夫妻。アメリカで育った杏奈さんと日本に留学していたカラさんは、結婚後スリランカで暮らしていましたが、国の情勢が理由で日本に戻ることに。カラさんが就いた車関係の仕事のために、縁もゆかりも無い中津市へ急遽引っ越しました。現在社宅を借りて暮らしている一家は、中津市で改めて暮らしを整えている真っ最中。そんなラージャパクシャ一家の移住ストーリーをお聞きしました。

日本で出会い、スリランカへ

スリランカでの子育ての様子

アメリカ育ちの杏奈さんは、高校入学後に家族の関係で日本に帰国しました。その後建設関係の現場仕事や飲食店などでパワフルに働いてきたのだとか。カラさんと会ったのは、杏奈さんが働いていた千葉県の職場へ、留学生のカラさんがアルバイトに来たことがきっかけでした。カラさんには双子の弟がいて、一緒に留学してきたのもあり、よく3人でいたのだとか。

杏奈さん:幼少期はアメリカのウェストバージニア州というのどかな農村地域で生まれ育ちました。当たり前のように自然豊かで、牧場があるような、絵に描いたようなカントリーサイドです。その後、父の仕事の関係でメキシコやカナダで暮らし、15歳で帰国しました。早いうちから仕事をしていて、その中で夫と出会いました。

自然豊かな環境でみんなで育てるスリランカ式子育て。

川で遊ぶ様子

その後、杏奈さんとカラさんが結婚。子育てを見据えて、家族が多く、自然が豊かで、スリランカ式のみんなで育てる子育てがしたいとのことで、カラさんのご実家のあるスリランカ・ガレーウェラ(Galewela)へ移住しました。首都コロンボまでは舗装されていない道を約半日かかるような、スリランカの中央に位置する町です。この町はなんと、この家族と親戚しかいない町なのだとか!そのため、住所ではなく、ファミリーネームを書くだけで荷物が届くそうです。

カラさんの父母だけでなく、親戚やう友人など、いつも人がいる環境だったため、子育てにそこまで苦労はなかったのだとか。カラさんのご実家ではココナッツオイルなどの加工品業を営んでいる関係で、広大なココナッツ農園が広がっており、そこで働く方々も一緒になって子どもを見守ってくれたそうです。

杏奈さん:夫の家族は比較的多く、ココナッツ農園のおかげで、人がたくさん行き交い毎日賑やかでした。パーソナルスペースが近いので、1人になるのが難しいところもありましたが、毎日誰かがいてくれる安心感がありました。私も大家族育ちだったからかもしれません。

一家5世代が集まっている様子

日本で長男を出産。スリランカで長女を出産した杏奈さん。妊娠中に国が大規模なロックダウンを起こし、地区をまたぐことができないルールが敷かれ、予約していた病院には行くことが出来ず、急遽仮設クリニックのような施設で帝王切開。産んで6時間で家に帰されるなど、日本ではなかなか考えにくいハードな状況での出産だったそうです。また、日本に仕事で滞在していたカラさんが帰国できなかったのだとか。

杏奈さん:予定が急に変更になり、家の受け入れの準備が間に合っておらず、家族みんなでバタバタしながらの出産でした。おむつも粉ミルクもなかったり、日本のような手厚いサービスはほぼ無く、いらないTシャツを切って毎日布おむつを作ったり。言語もわからず不安でした。ただ、周辺に家族やその友人などがたくさんいたので、服を作ってくれたり、食材を持ってきてくれたりと色々サポートしてもらったのでどうにかなりました。

国の情勢が悪くなり、日本帰国を考える。

大自然の中で伸び伸びと子育てをしていた一家でしたが、千葉県で仕事をしていたカラさんは、国の情勢悪化により仕事がなくなり、手伝っていた弟の事業も停滞してしまいました。また、スリランカでは仕事が無いどころか、行政が機能しないなど、大混乱が起こりました。そのような中でスリランカで暮らしていくことがとても困難な状態になり、日本に帰国することを決めたのだとか。

かつて日本で住んでいた家は既に手放しており、単身赴任をしていたカラさんは友人と同居していたため、家族が住めるような社宅がある仕事を見つけようと探し始めた2人。インターネットを活用し探したところ、九州各地に会社のある比較的大きめの会社の求人を見つけました。九州には縁もゆかりもありませんでしたが、スリランカで伸び伸び育った子ども達のことを考えると、九州は自然環境が良く、広々とした印象があったようで、藁にもすがる思いで応募。無事採用され、家族は日本帰国の切符を手にしたのでした。

書類の難しさ、手続きの複雑さに苦労。

どうにか日本へ戻ってくることが出来たラージャパンクシャ家。移住に至っては既に多くの苦労がありましたが、最も大変だったのは手続きのステップの多さや、書類関係の手配だったと言います。日本側での書類作成だけでなく、スリランカ側での書類作成もあるなかで、日本ではあまり経験のない「政府が機能していない」という状況から、通常通りに書類交付が行われなかったりと、苦労は数知れず。

杏奈さん:夫たちは日本語で会話ができるし、簡単な日本語なら読み書き出来ますが、行政書類関係で使う日本語などは、日本人の私にとっても非常に複雑で、苦労しました。行政書士などに依頼したものもありますが、費用がかかります。家族分の様々な経費を出している中で、全て任せるわけにもいかず、自力で解決していきました。

現在は国際結婚自体はそこまで珍しくなくなってきましたが、どの国の方も苦労するのが滞在ビザ申請。この申請は、ただ手続きをすれば良いだけではなく、滞在すべき理由として関係者の作文が必要だったりと、本人だけで解決できないことも多くあり、辛かったのだとか。

杏奈さん:まだ子どもが小さく、唯一日本語が読み書きできる私もアメリカが長かったのもあり、手続きの複雑さにかなり苦労しました。入国管理局は北九州市にあるため、毎回申請や呼び出しがある度に行くことになり、その旅費もかさみます。夫は企業へ就職をしたので、いつでも休めるわけでは無いし、近くには親戚や友人がまだいなかったので、頼ることもできないので、とにかくやらねば!と必死でした。

社宅近くにあったこども園と仕事先に繋がりを増やす。

苦労しながらも、社宅の立地のお陰で、すぐ近くに如水こども園があったため、少しずつ子どもを預けながら得意の鉄骨設計の知識を活かして働きに出始めた杏奈さん。おかげで保育園のママ友ができたり、仕事先に仲間ができたり、近所には理解のある方々がいることで徐々に暮らしが楽になっていったそうです。

杏奈さん:元気盛りの4歳の息子と3歳の娘にとっては、歩いて行ける距離に自然を活かした保育園があったことが幸いでした。また、ここで知り合ったママ友たちとお茶をしたり、一緒に活動することで、私自身の息抜きも少しずつできるようになったのが一番大きいですね。

カラさんも杏奈さんも、飲食業の経験が長いおかげでとても料理上手。そんな特性を活かして、保育園でスリランカフードを食べるイベントを開催したりしながら、徐々に繋がりを広げていきました。

環境の変化は子育ての大変さに。

自由度が高かったスリランカ暮らし

環境が変わったことで、大きな影響を受けたのは長男。当時3歳だった長男は、スリランカでの暮らしと言語も文化も違う中で、なかなか周囲に溶け込めずに辛い時期を過ごしたのだとか。幸いにも如水こども園が熱心に対応してくれたことで、少しずつではありますが、新しい環境に慣れていったと言います。

杏奈さん:帰国後1ヶ月して無事こども園に入れることが出来ましたが、本人にとっては全く異なった社会で、言語がわからず、食が進まなくなるくらい慣れるまでに辛い時間を過ごすこととなりました。帰国までの彼にとっての社会は、なんでも認めてくれる家族だけだったけれど、こども園は家族以外にも多様な人たちがいて、社会の枠組みを広げることが彼の最初の課題となりました。私たち夫婦も初めての子育てや急な帰国への対応で疲弊していたのがあり、最初の1年は家族にとっても修行の年でした。幸いにも如水こども園は周辺でも多様性を尊重し、たくましい子どもを育てるさくらさくらんぼ保育を推進しているこども園だったのもあり、日々諦めずに丁寧に長男に接してくれたことで、現在では友達も増え、毎日楽しい時間を過ごしてもらえるようになりました。

これからもこの町で暮らしていくために

▶︎提供しているスリランカフードプレートと自家製チャイ

たまたまたどり着いた中津市で、文字通り手探りで暮らしを始めたラージャパクシャ家。2年経った今、最低限の暮らしのベースは出来つつある中で、次はより自分たちがしたい暮らしづくりをしていきたいのだとか。

杏奈さん:私たち家族はスリランカの風土や文化がとても好きですが、現状暫くはスリランカで安全快適に暮らしていくのはなかなか難しいと思っています。それは、夫の弟や母親も同じで、みんなで快適に暮らしていくために、日本での暮らしを整えることが最優先事項です。でも、限られたスペースしかない社宅内に大人数で暮らすのは、なかなかストレスが溜まってしまいます。なのだ、これからはもう少し快適に暮らしていきたいと考えています。

そんな中、同じ中津市内に出来た大正時代の元郵便局を活用して始まった半公共空間「旧平田郵便局」を知り、得意の料理を活かして新たに「chandani spice kitchen」と屋号を付け、本場スリランカの家庭の味を提供する間借りカフェを始めました。カラさんの弟が元々日本でスパイス会社を経営していること、彼らの母親がスリランカの寺院にて長年食事を作ってきた経験などを活かした新しい試みです。

杏奈さん:鉄骨設計が好きな仕事ではありますが、日々の色々なことで溜まっていくストレスを発散できるのは、料理やその装飾、包装を考えたりすることだったと思い出しました。また、夫と昔から一緒にキッチンカーをしようと夢には描いていたけれど、それどころではない状況でした。そんな中、初期投資はほぼ無く、好きな曜日に間借りしてカフェができる施設が出来たので、できる範囲だけれど思い切ってやってみよう!と思い、夫の母親であるチャンダニおばあちゃんにレシピを教えてもらいながら、曜日限定で始めました。

地域の食材を活かしながら、本場の味をそのまま提供するchandani spice kitchenは、オープンして間もないが口コミで既に好評なのだとか。中津市内はもちろんのこと、隣接する市町村から何度も通ってくれる常連が多数います。

杏奈さん:夫婦でこっそり夢見てきたことでもあったし、好きなことが出来たり、カフェにいれば知り合いが増えていくので、とても良い息抜きになっています。今後はこの活動を活かして、自分たちらしい生業になるよう頑張っていきたいです。

最後に

国の情勢の変化により帰国を余儀なくされたものの、苦境に屈せず家族で協力し合いながら自分たちらしい暮らしを模索しているラージャパクシャ家。縁もゆかりもなくたまたまたどり着いた町でのその努力の日々を聞けば聞くほど、逞しい家族だと感じます。現在の社宅暮らしが人数的に窮屈になってきているため、今後はかつて暮らしていたガレーウェラの風景に似ているという耶馬溪地域で改めて家族みんなで暮らせる家を見つけたいというご夫婦。なかなか一筋縄には行かないことが多く起こる中で、家族一丸となってより良くしていこうとしている姿勢にとても尊敬します。

WRITER 記事を書いた人

Tomomi Imai

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25歳でフリーランスとして独立し、多様な分野にてプロデュースやディレクター業を経験。モノコトヒトをつなぐひと。多様な伴走を得意とする。絶賛子育て中。ヨガ・サーフィン・音楽・映画・コーヒー・日曜大工が趣味。

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