大分移住手帖

「自分でつくる」暮らしをしたいという想いから、積み重ねたキャリアを手放し、移住したのは故郷の竹田。半世紀を生きた男がDIYする次の暮らしとは。

eiko

取材者情報

お名前
友永英治(ともながえいじ)
出身地・前住所
出身地:大分県竹田市
前住所:鹿児島県鹿児島市
現住所
大分県竹田市
年齢
55歳
家族構成
妻、長女(7歳)、猫
職業
竹田市地域おこし協力隊、合同会社NOOK 代表社員
Webサイト
https://www.nookllc.net/
Instagram
https://www.instagram.com/eijitomonaga/

竹田生まれ竹田育ち。生粋の竹田っ子である友永さん。高校を卒業して上京した当初から、竹田に帰りたいと思いながらも、故郷に戻ったのは35年後。様々な仕事を経験しながらキャリアを積み、大手広告代理店で働きながら趣味も謳歌する日々。周りからは何不自由ない暮らしのように見えながらも、ご本人が求める「暮らし」との違和感が大きくなっていき、移住を決断。移住したのは故郷の竹田。その背景を伺いました。

違う環境を求め、都会に出ようと外へ外へと意識が向かっていた10代。憧れの都会へ出るも、すぐに故郷を恋しく思い続けた20代。

生まれてから高校を卒業するまで、ずっと竹田で暮らしていた友永さん。実家は、竹田市内外にもファンがいる人気の料理屋「友修」。3人兄弟の次男として育ち、お店を継いだお兄さんと、福岡で飲食業界に携わる弟さんがいらっしゃいます。

「自営業じゃないものに憧れていました。自宅がお店兼家だったから、庭付きの一戸建てにも憧れていましたね。」

と、唯一兄弟の中で違う道を選んだ友永さん。普通科の高校に進み、進路を考える頃には映像の世界に興味を持って、東京の映像の専門学校へと進みました。
早く都会に出たい、という思いでいっぱいだったのに、いざ憧れていた都会に行くとすぐさま後悔したとか。

「上京した初日に風呂にお湯を溜めたら、たちこめた蒸気がすごいカルキ臭で。その瞬間に無理だ!と思ったんです。」

出鼻を挫かれるようにして始まった東京での生活。映像やテレビ番組の制作を学び、そのまま映像制作の会社に就職しました。ADとしてデビューしたのが20歳。2年勤めた後に、友人から(株)リクルートの自動車情報誌「カーセンサー」の海外製自動車に関する編集チーム立ち上げに誘われ、転職します。

「東京の生活は楽しかったですよ、でもお金もなかったし、なんだかいつもアウェイ感を感じていたのもあって。やっぱり故郷が恋しかったんですよね」

念願の九州へ。地場企業への転職を果たし、タイミングよく転職を重ね、更に仕事のキャリアを積んだ20代から30代。

故郷への想いは消えず、希望を出して福岡にある九州支社へ異動することに。大学や専門学校の情報をまとめたリクルート進学ブックなどを担当し、目まぐるしい日々を過ごされました。

念願の九州に戻り、もうここを離れたくないという思いから、福岡の「イムズ」という商業施設の開発準備室へ転職。立ち上げから6年程、イベントやホールのライブ、広告宣伝といったプロモーション業務を担当したのが、20代後半から30歳でした。

その後、イムズ時代にのめり込んだ釣りをきっかけに、釣具メーカーに転職。広告宣伝業務や会社のwebサイト制作などを担当していましたが、ある時、以前の取引先だった広告代理店・電通の担当者に再会し、電通九州に誘われ、35歳の時に転職しました。

「20数年前のインターネット黎明期で、まだ企業がホームページを開設するのが珍しかった時代に、自力で会社のサイトを作った話をしたんです。その頃は、東京の電通にもデジタル専門セクションがない頃で、タイミングがよかったんですよね。」

とにかく夢中で走り続け、気絶するまで働くこともあったと語る広告代理店勤務時代。そうして、デジタルの広告仕事にどっぷり浸かり、気がつけば12年くらい経っていたといいます。

仕事は忙しくも、趣味の世界も広がりつつ深まっていった会社員時代。

収入面では安定したものの、多忙を極める毎日。その反動から、趣味に没頭することも増えていったといいます。中でも釣りとDIYは、いずれもセミプロ級の腕前を持つほど。

DIY生活が本格化したのは、今から十数年前の広告代理店勤務時代。福岡市内に原状回復の義務がない、何をしてもよいという1軒家を見つけ、そこをまるごと1人でフルリノベーションしたのが始まりだとか。住みながら、各部屋を自らリノベーションされたそうで、その様子は仲介してくれた不動産会社「福岡R不動産」のブログに、記事として掲載されたそうです。(その時の記事はコチラ)

これを機に、移り住んだ家の庭の倉庫をイチから作ったり、トイレや洗面所の内装を変えたり、棚づくりなど、必要なものや欲しいものは「自分でつくる」が当たり前のスタイルになっていったそうです。最近では、店舗の内装の手伝いやアドバイスを求められることもあるのだとか。

今では、常に「何か作っていたい」と思うほどにものづくりが好きだそうですが、その原点は、小学生の頃にあったようです。

「小学生の頃に、知人のおばあちゃんから壊れたラジオを直してと頼まれ、頑張って修理したらすごく喜んでもらったんです。それがめちゃくちゃ嬉しくて。その頃から、修理したり作ったりすることが好きになった気がします。」

DIYを続ける中で、もっとスペースのある場所でものづくりしたいという想いが芽生え、自然と町よりも田舎に目が向くようになった友永さん。同時に、今のままの暮らしが自分にとって本当にベストなのかと考え始めたそうです。娘さんが生まれたことも後押しして、環境を変えようと福岡から鹿児島支社への転勤願いを出します。

鹿児島での2つの出会いが移住を考える大きなきっかけに。

新しい環境・鹿児島に移ったことで、さらにこれからの暮らしを考えるようになった友永さん。鹿児島支社では、携わる業務のほとんどが地場企業や役所の仕事。中でも、移住定住促進に関する仕事に関わる中、いつしか自分と重ね、これからの生き方や暮らし方をさらに考えるきっかけをたくさん得たそうです。

その中でも、ある2つの出会いが自身を移住に向けた大きなきっかけになったとか。

1つ目は、東京から移住した東さん家族。旦那さんがカメラマン、奥さんがネイリストで2人のお子さんがいます。(参考:HIGASHI HOUSE

「彼らはその道ではプロなのでスキルもあるのに、移住当初はなかなか仕事がなくて、収入面で本当に厳しそうでした。でも、空き家をセルフリノベして自分たちのスタジオにしたり。お金はたくさんなくても楽しく生きていけるよって、身近で見て勇気をもらえたというか。自分の暮らしも変えられるかもって思ったんですよね。」

もう1つが、霧島にある「きりん商店」というお店。福岡でデザイナーとして働いていたご夫婦が、全く経験のない雑貨店を始めた姿は、自分達にも可能性があるんじゃないか、と思うきっかけになったそうです。

霧島市の移住促進の仕事に関わったことも、かなり大きかったとか。移住について知り、関係する人々や様々な働き方、生き方をする人にも出会う中で、友永さんの中でいろいろな変化が加速していったといいます。

帰省の度に面白くなっていく竹田に惹かれ、高待遇なキャリアを捨て、ついにUターン。

竹田市は全国的にも早くから移住政策に取り組み、地域おこし協力隊も全国トップレベルの人数がいる町。個性的な人が多く移住していることを、友永さんも聞いていたそうです。年に2、3回は鹿児島から竹田に帰っていた5、6年前。その度に町が変化していて「面白いな」と思っていたと言います。

「帰省の時に、高齢の両親の手を煩わせるのが申し訳なくなり、ゲストハウス「cue」に泊まるようになったんです。そうしたら、今までとは違う竹田を知るようになって。実家への帰省だけではわからない、第三者の視点から竹田の魅力を知ったんです。知れば知るほど、『やっぱり竹田がいいな』という気持ちが大きくなっていきました。」

そして今から3年前の夏、ついに移住を決意。

ひとまず仕事は辞めて移住し、暮らしながら次の準備をしようと思っていたそうですが、市役所に移住相談をすると、地域おこし協力隊の制度を勧められ、応募し、見事採用。

こうして、無事に2018年6月末に竹田にUターンできたそうです。

現在は、竹田市の地域おこし協力隊として、まちづくりたけた株式会社に配属され、竹田のまちづくりに奔走する日々を過ごされています。1年目は、ふるさと納税を主な業務に。前年度4,000万円台だった納税額を1年で2.5億円に拡大。その後は、まちづくり会社が抱える事業のサポートを中心に、中心市街地活性化事業に関わる事業やワーケーション事業、コロナ支援事業などいずれも、今まで培ってきたノウハウやキャリアを生かしながら活動されています。最近では、インターネットについての相談や広報、事業構想についてなど個人的に相談されることも増えているそうです。

暮らしの面では、湧水スポットがたくさんあるエリアに住み、畑も始めて豊かな自然を満喫する毎日を送られています。朝も夜も家族揃って食事したり、前よりも家族が一緒にいる時間が増え、より一層幸せを実感するようになったとか。

とにかく何かをずっと作っていたい。「つくる」ことにこだわる姿勢は、求める「暮らし」があるから。

「今55歳で、あと10年したら年金受給者ですよ」と笑いながら話す友永さん。

大手広告代理店で会社員として働き、安定した収入を得ながら趣味も楽しむ日々。そのまま穏やかな日々を送り、定年を迎えて…と普通なら考えるはず。

その安定した日々を、50代を過ぎてから手放すというのは、よほどの覚悟や想いがあったのではないでしょうか。まだ小さい娘さんもいらっしゃるので、なおさら。

「もちろん仕事をどうするんだとか、不安がなかったといえば嘘になります。前の会社の上司も初めは半信半疑。周りからはどうして?と聞かれることも多かったです。でも、今までの経験と自分を信じて、もっと暮らしている実感を持てる生き方をしたくなったんです。」

協力隊も3年目となり、その後の生業をいろいろと考え、動き始めた友永さん。今考えているのは、ご夫婦で小さな民泊業を中心としながらの場づくりだそうです。

「宿泊をしてもらいながら、その敷地内に自分の工房、嫁さんの工房兼ショップ、瀟洒(しょうしゃ)な家とゲストさんの泊まる場所を持ちたいと思っています。僕らの暮らしの中に来てもらい、時間を過ごす。希望があれば、一緒に畑やDIY、料理をしてもらって、楽しんでもらえたら最高ですね。」

思うような場所がまだ見つかっていないそうですが、イメージはしっかりあって、奥様とも共有できているとか。これまでに、時間を作っては気になる場所、これからの自分達にヒントがもらえそうなところに一緒に出かけてきたそうです。地方で奮闘する人達や、多くの人を惹きつけている場所を訪ね、その魅力を肌で感じながら、お互いに感じたことを話し合う時間を重ねてきた友永さんご夫婦。今年7月には、お2人で合同会社NOOKも立ち上げ、少しずつ進みだしているそうです。

竹田でしたいのは広義なDIY=自分でやるということができる暮らし。お金で変えない時間と環境、空間がここにはあるから。

「今は狭義のDIYがフューチャーされるけど、DIYに木工やインテリアって言葉は1つも含まれていなくて「自分でやる」ということが本来の意味なんです。料理だって、畑だって、壊れたものを直すのだってDIY。元来自分でできることを、お金で買ってきたのが消費という暮らし方だった。でも、自分でできることって身の回りに沢山存在していて、それをやるのにお金はさほどかからないけれど、時間と環境と空間は必要。そんな広義のDIYができる豊かな暮らし方を、竹田で実践したいし、できると思っています。」

常に何かを作りながらの暮らし。それは、家具かもしれないし、車かバイクかウェブかもしれない。「つくる」ことの対価としてお金を得られ、暮らしていけたら最高ですと満面の笑みで語ってくれました。

最後に

35年の月日を経てようやく帰り着いた故郷。移住は決して容易ではなかった決断のはずなのに、お話していると、苦労や大変さをあまり感じられませんでした。きっと、今の暮らしが充実しているからなのでしょうね。自分の中に芽生えた違和感に目を背けず、きちんと向かい合う姿勢が今へと繋がったのだなと思いました。友永さんの暮らしに対する熱く深い想いが、どのような場所を作るのかとても楽しみです。

 

 

 

 

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  • 「自分でつくる」暮らしをしたいという想いから、積み重ねたキャリアを手放し、移住したのは故郷の竹田。半世紀を生きた男がDIYする次の暮らしとは。
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WRITER 記事を書いた人

eiko

プランナー / ディレクター
合同会社 NOOK、竹田市地域おこし協力隊 
食品流通でのマーケティング、プロモーションの経験を経て、 (株)電通九州へ。特に食や女性、暮らし視点を必要とするクライアント業務に従事し、2011年退職。出産を機に食や環境への関心が高まり、2018年6月に主人の郷里・大分県竹田市に移住し、地域おこし協力隊として活動しながらこれからの暮らしを模索中。
2020年7月に主人と共に合同会社NOOKを立ち上げる。
”キッチンから暮らしをハッピーに”をコンセプトにしたwebshop「itonami kitchen」を運営中。
50度洗いと低温スチーミング調理インストラクター
上級麹士、ホールフードシニアコース修了
国際薬膳食育師

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