大分移住手帖

夢が実現できそうな風土がある大分県別府市。健康な人も障がいのある人も、若者も高齢者も、誰でも受け入れるマインドとホスピタリティが整っていて。

熊代 はるか

取材者情報

お名前
神田憲治(かんだけんじ)
出身地・前住所
奈良県五條市
現住所
別府市
年齢
47歳
家族構成
妻・長男・次男
職業
障害がある方の自立支援サポート(福祉関連)
Facebook
https://www.facebook.com/kenji.kanda.585

別府はとてもユニークで興味深い街。
年間900万人もの観光客が訪れる、人口12万人の街。
外からの人や文化を受け入れ続けてきた別府は、現代社会が求める“ダイバーシティ&インクルージョン(=人材の多様性(=ダイバーシティ)を認め、受け入れて活かす(=インクルージョン))”のような地域の先進地かもしれない。

湯治文化の名残りが残るレトロな街角に、いたるところで外国籍の方が活躍している。これは2000年に立命館アジア太平洋大学(通称APU)がこの地を選んで設立されたことからもわかるように、街の商店街は若者によるユニークな出店やアーティストが活躍できる環境が整っていて、大分県内の他のまちと比較しても特異性が際立っている。そんな街だからこそ障がい者を受け入れるマインドも他のエリアより高いかもしれない。その第一線にいるのが神田さんだ。

今回取材に応じてくださったのは、奈良から移住して7年目の神田憲治さん。現在、「NPO法人自立支援センターおおいた」に勤務し、障がい者が住みやすい環境づくりや、情報を発信している。

人生の転機は高2。バイク事故から始まった車椅子生活。

神田さんの人生の転機は高校2年生の頃。バイク事故で首をひどく強打し、頸髄の神経を損傷、そこから車椅子の生活が始まったという。

「ほとんど寝たきりの生活だったなあ。当時、僕のように障がいを抱える人間は家族が世話をするのが当たり前の世の中だったから母親を中心に3人の弟や妹たち(当時は小中学生)がよくお世話をしてくれた。」と神田さんは当時を振り返る。今から約30年前の日本の介護社会は、現在のようにヘルパーを頼る社会生活には程遠く、ほとんどは家族が介護をするというのが一般的で、神田さんも家族以外に頼るという考えは全く無かったそうだ。

介護によって体調を崩した母。自暴自棄になった介護初期に知った別府の国立別府重度障害センターの存在

家族による介護生活もそう長くは続かず母親の体調不良・手術をきっかけに神田さんは自身の存在について深く自暴自棄になったという。

「母は僕のせいで体調を崩してしまい、さらに幼い弟妹たちの時間を奪っていることに腹立たしく思い、あの時期も本当につらい日々だった。」

そんな時、奈良でのケースワーカーを通して別府の国立別府重度障害センターの存在を知る。そこは、重度の身体障がいがある方、残存機能を活かし機能回復を支援する施設である。言い換えると、一度は見失った自分の人生の目標や、未来へ進む力を取り戻す場所であった。そこで神田さんは約5年間、生活訓練を受けた後、奈良へ帰省した。

立ちはだかった障がい者と健常者の経済的格差という壁。

奈良へ帰省した神田さんは障がい者雇用枠にて建築業や事務の仕事に就職した。ようやく仕事にも慣れてきた頃、再び大きな壁にぶつかった。

「障がい者と健常者との経済的格差」である。5年も働き続けた神田さんの給料を、後に就職してくる健常者がすぐに上回る。体が不自由なだけで同じ扱いをされていないという現実に腹立たしく思い、結局仕事を辞めたのだった。

別府から会いに来てくれた。その心意気が背中を押してくれた。

別府での訓練生活の中で、神田さんはある二人の人物に出逢っていた。それは、NPO法人自立支援センターおおいた理事長の後藤さんと、別府温泉名人会代表の佐藤さん。その頃から付き合いのあった二人から「別府に移住し、一緒に仕事をしないか?」という話をもらっていた。嬉しい反面、神田さんは一つだけ懸念点があった。それは「仮に僕が別府へ移住したとしても家族以外の誰かの力を借りることができるのだろうかということであった。

どう返事しようかと悩んでいる矢先、なんと後藤さんと佐藤さんが奈良へ会いに来た。街の外からきてもらうどころか、むしろ別府から来てくれるなんて、なんとも別府の人らしい前のめりな姿勢である。神田さんは訓練生活の頃から二人の人の好さをよく知っていたため、心から嬉しかったそうだ。来てくれたのなら行かなければと、神田さんも久しぶりに別府の地へ訪れることにした。そこで、後藤さんや佐藤さんを通して別府市民の温かさに改めて感じ、移住を決意したのだった。

移住の理由は「誰でも受け入れるマインド」と「夢を実現できそうな風土」

神田さんが別府に移住した大きな理由は2つ。1つは「誰でも受け入れてくれるマインド」だという。

「訓練生活の中で出逢った後藤さんや佐藤さんはじめ、別府に住む人々はどんな人でも歓迎するマインドがすごく高いですよね。まさか車椅子が必要な僕が温泉に 入れるとは予想もしていなかったです。車椅子ユーザーや障がい者に優しい温泉施設がいくつもあります。別府は、住む環境だけでなく市民のホスピタリティも整っていると、5年間訓練生活をしていた時に強く感じましたね。」

もう一つは「夢を実現できそうな風土」だという。

「世間一般でいうヘルパー事業者の主な仕事内容は“サービスを提供すること”です。障がい者のお世話をするイメージが大きいと思うけれど、それは違いますね。障がい者もハンデを抱えているだけで健常者と何も変わらない。何も変わらないからこそ、この日本社会においては平等に扱われるべきであって、自身の意思を尊重した生活をするというライフスタイルがあって当然だと思うんです。その生活を介助するのが介助人の仕事で、僕は、障がいを抱える人々も自身の意思や選択を優先しながら生活する権利があるということを広めていきたいんです。別府ならそんな夢を実現できる風土があるなと思ったんです。」

最後に

「移住を決断してから完了するまでに結構なエネルギーやパワーを使ったなあ」と笑いながら話してくれた神田さん。

「やっぱり移住に関しては精神的な疲労もあったよね。手続等で市役所や必要な場所に行くだけでやはり他の人とは違って体力を使った覚えはある。でも、別府に移住してからは不便に思ったことや困ったことは本当に何もないんだよね。徒歩圏内に必要なものは揃っているし便利な街だよ」語った。

 

神田さんのお話を今回聞いた中で感じたこと。

それは、別府という街は良くも悪くも「雑多」という言葉が似合うなということ。

冒頭でも触れたように、別府に住む人々は全員が等しく街の一員としてこの土地に溶け込んでいるように感じる。それは、住み心地ががいいだけでなく、その人がその人らしくいてもいいからなのかもしれない。別府のような“ダイバーシティ&インクルージョン”な街は決して多くはない。別府はそういった意味で多様性に溢れ、人々を包み込む街の発信源としてはすごく大事な役割を担っている。神田さんがNPO法人自立支援センターおおいたで取り組んでいるように街の外からやって来る人々に別府の住みやすさや生活様式を発信する取り組みがあったからこそ今の別府が存在しているのである。誰もが挑戦することを許容し、別府から新しいスタンダードが生まれる可能性に溢れた町。そんなこれからの未来づくりを始めている別府には、まず一度訪れてみて肌でその感覚を味わってみてもらいたい。

WRITER 記事を書いた人

熊代 はるか

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