大分移住手帖

育った街が好きだからテレビを通して恩返しをしたい。森祐作がいま伝えたいUターンの本心。

髙橋ケン

取材者情報

お名前
森祐作
出身地・前住所
東京都足立区
現住所
大分県大分市(出身地は大分県豊後大野市)
年齢
36歳
職業
タレント

テレビ大分の情報番組「ゆ〜わくワイド&News」や臼杵ケーブルテレビ「うすき大好き」などに出演するタレント・森祐作さん。夢を追いかけ福岡へと飛び出し、東京へと挑戦の場を移した20代。ずっと消えることのなかった地元への愛情。森祐作さんがUターンを決めたきっかけや、地元豊後大野市に想う気持ちを訊きました。

自然豊かな場所で、藁で殴り合う少年時代

両親と2人兄弟の次男として旧朝地町(現・豊後大野市朝地町)に生まれた森さん。朝地町の自然豊かな環境で育ち、テレビゲームよりも缶蹴りなどの外遊びや、ときには田んぼで友達と藁を使って殴り合うなど活発な少年で、いつも遊ぶ場所は身近にある自然だったといいます。クラスの中で目立ちたい男の子でいわゆる「ガキ大将」のようなリーダー的存在だったそうです。

「子どものころからずっと常にステージの真ん中で立っていたいような性格でした。やんちゃ坊主でしたが、いじめられている子がいたら『大丈夫か?』と手を差し伸べちゃうような子で、みんなから信頼を得られることが快感に感じていたのかもしれません。常にリーダー的存在でいたいと思っていましたし、みんなから頼られたいと思っていました。カッコよく見られたかったんですよね」

褒められることがシンプルに嬉しいと話す森さんですが、たまに前に出ることも疲れるそうで、中学校で目立っていたメンバーとはまったく違う旧三重町(現在・豊後大野市三重町)にある大分県立三重高校(現・大分県立三重総合高校)へ進むことになりました。

高校卒業後、すべてを捨てて美容師になるため大分市へ

高校では、小学中学とは違い大人しく、普通の高校生活を送ろうと思っていた森さん。とはいえ人間はそうそう変わるものではないようで。「いつの間にかみんなの前で『ワー』って立っていたというか。結局、人の前に立ったり、みんなのことを引っ張っていきたいみたいな人間なんですよね」と振り返ります。国体指定校でもある剣道部に所属し、強豪校からか、部活の真面目さに嫌気がさしてヤンチャして家出をしたり、部活動を辞めようと思ったこともあったそうですが、なんとか3年間続けて、3年生のときにはキャプテンを務めました。その後、大学も指定校の推薦をもらえるのが確実だった入試直前に、大学へは進まずに美容師になることを決断します。

「大学に進学して剣道を続けていくより、遊ぶのが楽しくなっちゃったんですよね。あと豊後大野市外へ出ることがステータスだったし、やっぱり外の世界を見たいと思っていました。美容師になりたいわけではなかったんですがお金がなかったので、美容室で働きながら専門学校に通うことを考えて、とりあえず大分市内の美容室に就職しました」

しかし、好きではなかった仕事は長くは続かず、2年で退職します。同時に、美容師の世界に飛び込んだことでヤンチャな気持ちでは社会で通用しないことを学んだといいます。

「好きなことを仕事にしたいと思ったんです。やっぱりずっと剣道をやってきていたので剣道が好きでしたし、剣道に携わる仕事がしたいと思って、地元の先輩で剣道の仕事をしている人のところで働くことにしました」

華やかな芸能界を目指し、福岡へ

2年ほど続けた剣道の仕事に一区切りをつけ、再び大分市に戻り、将来についてぼんやりと考えていたある日。ふと自宅で見ていた音楽番組に、音楽ユニット『globe』のKEIKOさんが出演していました。KEIKOさんといえば、大分県出身で第1線で活躍する大スター。『globe』としてデビューするまでの生い立ちを番組で紹介していたそうです。

「こんなにも身近な街の人が、オーディション雑誌から応募して、こうして東京で活躍できるんだと思って。田舎育ちだったので芸能界は別世界だと思っていたのですが、番組を見て急に距離感が縮まった気がして『俺もやってみたいな』と思いはじめたんです。その足で本屋さんに行ったらたまたま同じオーディション雑誌があって、10社くらいに応募しました」

オーディションを受け、1社に合格した森さん。東京にある大手プロダクションの福岡事務所へ所属することになり、福岡へ引っ越すことになりました。全てが真新しく新鮮な世界。初めての都会と言っていいほどたくさんの情報に溢れていました。

「地域的な寂しさはまったくなかったですね。ただ、今までの豊後大野市のコミュニティや剣道のコミュニティが一気に遠くなってしまったので、人の寂しさはありましたね」

順調に思えた芸能生活に暗雲。重病との闘い

発声練習や演技のレッスンをしながら、仕事が入れば仕事へいく日々。寝る間を惜しんでバイトをしながら自分の好きな道を掴むために必死だったといいます。

「とにかくいただく仕事を断るのだけは絶対に嫌だと思って。常に仕事のスケジュールを優先できるアルバイトもしていました。そうしているうちに、オーディションにも受かり出して、CMもメインで受かったりして、収入も少しずつ増えていきました。舞台には地元からもたくさん見に来てくれましたし、両親も見に来てくれました。成功というまでにはまだまだ程遠いけれど、やればやるほど結果がついてきたのはうれしかったですね」

CMから舞台、ドラマなど順調に仕事が増えてきた森さんに悲劇が襲います。

「2009年の暮れに急にめまいがしはじめて。ただドラマの現場に入っていたので、クランクアップするまで抜けられず、年末の帰省時に体調が悪いからと病院へ行ったんです。そしたら先生が顔色を変えて僕のところへ来て。頭に腫瘍ができていると。さらに詳しく検査して診てもらおうともっと大きな病院を紹介されました。1000万人にひとりしか発症しない珍しい病気で、手術をして後遺症なしで復帰することは99%無理だと言われました。手術をすることによって、顔が麻痺する、表情が作れなくなる、声が出なくなるなど通常のように社会復帰するのはおそらく厳しいだろうと。でも、このまま放置をしていたら腫瘍が大きくなり脳を圧迫して最終的には死に至ると言われました」

順調に進んでいたかに思われた芸能人生。一転、暗雲が立ち込めます。手術をすれば、後遺症が残り芸能人生を諦めなければならない状況下で、なんとか芸能の道を諦めない道を探ります。病院に掛け合う日々。藁をも掴む思いで世界で活躍する日本を代表する脳外科医にたどり着きます。

「たまたまその先生が海外から日本に帰ってくるタイミングで診察してもらえて。手術をせず放射線治療をしましょうということになりました。そのタイミングもあって福岡の事務所を離れ、東京でフリーでプロダクションを探しながら仕事を続けていくことにしました」

次の舞台で東京デビューが約束されていた森さんでしたが、病気と闘いながらさらなる芸能での活躍の場を求めて上京します。

人生を賭けた最後の望み、東京へ

大都会、東京。俳優、舞台、芸能…夢を追い求め、何人かの夢が叶い、何百万人もの夢が失われていくこの場所で、森さんは1カ月の放射線治療をスタートさせます。そんなとき、直接知らない地元の後輩がきっかけで始まった何百、何千という数の千羽鶴が届き、森さんを奮い立たせます。

「つらい放射線治療のおかげで、腫瘍は順調に治療することができました。考えられていたような後遺症も残らなかったのですが、ただ唯一、右耳の聴力だけは失いました。それでも芸能の仕事は続けられるし、地元から応援してくれる人たちのために東京で活躍して『あいつ頑張っているな』と認めてもらうためにやれることはなんでもやっていこうと思いました」

所属プロダクションへ応募しながら、少しでも芸能界の近くで仕事をしようと映画の制作スタッフとしての仕事も受けていたといいます。しかし、なかなか所属事務所はそう簡単には決まりません。

「プロダクションの募集要項に、必ず”心身ともに健康な人”という欄があるんですね。嘘もつけないし正直に話すんですが、それがネックになって。なんとか元気な姿を地元の人たちに見てもらいたいという気持ちとは裏腹に所属させてくれる事務所もなく簡単ではなかったですね」

大好きな故郷への恩返し、Uターンを決意

事務所が決まらず、東京での苦悩の日々が続く中で、支えになっていたのは自分が辛いときに応援してくれた地元の人たちの声でした。顔も知らない後輩が一生懸命みんなに声をかけてくれて地元のみんなが応援してくれていました。

「最後にもう一度だけ、大分県へ帰って豊後大野市のみんなに恩返ししたいと思ったんです。辛いときに応援してくれていて本当に支えになっていました。一度外へ出たけれど、やっぱり故郷のことは忘れていませんでしたし、帰ってくるとホッとできる場所なんです。自然が溢れていて、人が温かくて」

「これが最後のチャンスだと思って、面識もなかったのですがテレビ大分のアナウンサー・小笠原さんに手紙を書きました。1週間くらいしたある日、小笠原さんから直接ご連絡をいただいたんです。お会いしてテレビ大分さんの番組に出させていただくことになりました。テレビの画面を通して、応援してくださる地元・豊後大野市や大分県の皆さんに少しでも元気を与えたいんです」

2014年からスタートする「ゆ〜わくワイド&News」の出演が決まり、大分へ戻ってきた森さんはその後もいろいろな番組へ出演することになります。番組以外にも豊後大野市のお祭りの司会や講演会の司会なども務めています。その功績が認められ、2020年に豊後大野市のふるさと大使にも任命されました。

「やっぱり生まれ育った街だから、お世辞でもなんでもなくて、本心から豊後大野の人たちが好きなんですよ」

最後に

自然豊かな場所で育ち、田舎が決して嫌いではなかったと話す森さん。夢を追いかけ一度は故郷を離れ、さらにその場所の魅力と【地元】という場所の大切さ、人の温かさに触れたからこそ、故郷を想う豊後大野愛が深まったことでしょう。「スケジュールが空いている限り、豊後大野市のためならなんでも協力できることをします」とつねづね口にしている森さんからは、地元を本気で愛す豊後大野愛に溢れていました。

WRITER 記事を書いた人

髙橋ケン

茨城県出身。文章のみならず地域のまちづくりにも関わる編集者。大分県豊後大野の地域メディア「豊後大野カンケイ協会」編集長。ゲストハウスLAMP豊後大野支配人でもあり、フィンランド式サウナ「REBUILD SAUNA」ビルダー。猟師。サウナ・スパ健康アドバイザー。企画・編集書籍「東北ライブハウス大作戦〜繋ぐ〜」が発売中。アウトドアサウナ協議会「おんせん県いいサウナ研究所」の所長。

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