大分移住手帖

気づけば大分県がセカンドホームタウンに。地域おこし協力隊を経て定住へ

Tomoe Sato

取材者情報

お名前
吉澤 太郎
出身地・前住所
大分県臼杵市
現住所
大分市
年齢
35歳
家族構成
妻・子一人
職業
一般企業:経営企画室勤務

東京都出身の吉澤太郎さんは、地元の高校を卒業後、立命館アジア太平洋大学(以下APU)への進学を機に初めて大分県を訪れます。在学中に大分県の土地や人に魅了され、卒業後いったん東京へ戻るも、地域おこし協力隊として再び大分県へ移住しました。

現在、大分市に在住し企業で働く吉澤さんに、大学生活から地域おこし協力隊としての活動内容や現在の生活まで詳しくお話を伺いました。

 

大学進学を機に、イベントなどを通して大分県の‘‘人‘‘が好きになった

別府市を一望できる十文字展望台から見たAPU

 

東京都出身の吉澤さんは高校卒業まで、大分県どころか九州にも来たことがなかったそうです。もともとAPUが第一志望ではなかったため入学が決まってからバタバタと大分県での生活が始まったそうです。

 

吉澤:初めて大分県を訪れた時は、電車が2両編成だし「地方に来たな」というのが第一印象です。大分弁などの方言を聞くこと自体が初めてだったので最初は聞き慣れなかったですが、田舎だから嫌だとか抵抗感はなく、新鮮味がありむしろポジティブに受け止めていました。入学当初は大学の寮に入っていたので友達もすぐできたし、馴染むのも早かったです。

僕が入学した頃のAPUは設立して7年目ということもあり、大学も街もまだ無いモノ・コトばかりでした。そこで、仲間と一緒に使わなくなった事務所を貸してもらい、改装して3ヵ月だけbar&フリースペースをオープンしたり、地域事業として別府港ターミナルや、海岸でビーチフェスティバルなどのイベントをしたり、とても濃い大学生活をすごしました。色々な地域で開くイベントや活動を通して、大分県のたくさんの方にとてもお世話になり、その経験から将来的に大分県で暮らしたいと考えるようになりました。

大学生時代の吉澤さん

 

国際系の大学に通いながらも、気づくとローカルで活動をしていた吉澤さんですが、大学在学中から企画をすることが好きだったそうで、その経験は大学卒業後から現在に至るまで彼の仕事のスタイルのベースとなっています。

 

地元へ戻るも、心は大分県に留まったまま

吉澤さんはAPUを卒業後も、大分県に残りこれまで経験を積んできた企画や広報に携わる仕事ができる県内企業への就職を目指しましたが、希望する就職先が見つからず一旦東京へ戻ることになります。

 

吉澤:大学卒業後は東京で広報の仕事に就きました。少しでも大分県を紹介できる仕事がしたいと思い、当時注目され始めた国内の地域を取り上げるメディアなどに関わっていました。また、将来的に大分県で生活することも諦めていなかったので、友人知人に会うのと仕事を探すことを目的に、大分県へ年2、3回ほど訪れる生活を2~3年続けていました。

その結果、友人から地域おこし協力隊の制度を紹介されました。

 

当時、全国的にもまだ地域おこし協力隊という制度が認知・確立されていない時であったため、吉澤さんも友人から話を聞くまで制度自体知らなかったそうです。そこで当時福岡市で開かれていた地域おこし協力隊の説明会に参加した吉澤さんは、臼杵市のブースにいた行政の方の熱意がすごかったと言います。そこで臼杵市の地域おこし協力隊なら、大分県の魅力を伝えられる広報や企画ができ、大分県で生活する準備や土台づくりができると思い、応募することを決めたそうです。

 

移住希望者向けの広報や企画に携わる

臼杵市のとある場所にて

 

吉澤:地域おこし協力隊の活動では、市や県の移住定住施策における広報や企画全般を担当しました。具体的には、ガイドブックの作成や都市部メディアの広報、県外向け移住関連イベントの企画などを行いました。他にも、地域の行事に参加したり、地元の小学生とAPU留学生の交流事業や、ケーブルテレビの番組企画など多岐にわたり、多くの方々にお世話になりながら非常に貴重な経験ができました。

臼杵市の地域おこし協力隊第一号だったので、まずは地域の方に知ってもらうことが必要で、任命されてすぐに僕が市報の表紙を飾りました(笑)協力隊という名前からなんでもしてくれると思われることもあったので、あらゆる表舞台に立っては地道に「地域おこし協力隊とはこういうものです。」という説明を毎回行っていましたね。

あとは出来るだけ臼杵市の土地や文化、生活を少しでも知り、それを広めるために活動をしていました。

地域おこし協力隊として広報活動中

 

任期満了を迎える3年目には協力隊の認知度や制度の幅も広がり、急速に変化があったと吉澤さんは言います。

 

コミュニティーハウス「A・KA・RI」を通して地域の「明かり」に

コミュニティーハウス「A・KA・RI」

 

吉澤さんの地域おこし協力隊としての活動の一つが、コミュニティーハウス「A・KA・RI」の運営です。

 

吉澤:空き家だった民家を借り、住居兼コミュニティーハウス「A・KA・RI」を立ち上げました。名前の由来は、ご近所の方から

「ずっと空き家で暗かったから、明かりがついてよかった」

と言われたことから「A・KA・RI」という名前にしました。AKARIではUIJターン者向けに困りごと相談や地域の案内を行ったり、協力隊の拠点として利用したりしていました。また地域の方へも開放していたので交流会の場としても活用していました。

僕が協力隊を卒業する際に、引き継いでくれる人を探していたところ、ちょうど同じ時期に臼杵市に移住してきた方が、そこでカフェをやりたいということで「Tubby’s cafe」をオープンし、現在も明かりを灯し続けてくれています。

AKARIに広瀬知事が訪れた時

 

吉澤さんに、地域おこし協力隊として活動していた間に印象に残ったことを伺ったところ、数多くあり選べないけど、AKARIで地域の方から行政の方まで色んな人が集まってよくわいわいしていたことが良い思い出と教えてくれました。地域の方々もみんな仲がよく、AKARIではひと夏に3~4回は集まってパーティーをしていて、大分県の広瀬知事も訪れたことがあるとか。

 

現在は大分市の企業で働き、結婚し子育てをしながら大分生活を満喫中

地域おこし協力隊を卒業した吉澤さんに現在の生活についてお聞きしました。

 

吉澤:地域おこし協力隊の任期が終わる前から、仕事について情報収集を行っていました。企画や広報に引き続き携われる仕事か起業も考えていましたが、大分市にある企業が僕の希望と合い就職することになりました。

今は結婚して子どもも生まれました。週末は家族でかんたん港園田ノ浦ビーチに散歩に行ったり、ドライブに行ったり、商業施設で買い物を楽しんだりしています。大分市は自然が近くにあり、ほどよく人が少ないため通勤のストレスも少ないですし、生活する上で困ることはありません。東京で働いている頃は、毎朝満員電車に往復2時間以上乗って通勤していたので、今だったら耐えられないかもしれません(笑)。

田ノ浦ビーチ

 

臼杵市、大分市と大分県での生活を楽しんでいる吉澤さん。大分県にも通勤ラッシュはありますが、車通勤の方が多く公共交通機関の混雑は東京ほどではありません。

 

仕事の安定のために

大分県に移住して10年が経過する吉澤さんにこれまでを振り返って、移住する上で大変なことや移住を検討している人へのアドバイスをいただきました。

 

吉澤:やはり仕事面で、ある程度安定と言える状況まで持っていくことは大変だと思います。やりたいと思うことができるまで3~5年はかかると考えた方がいいかもしれません。乗り越え方は行動力と柔軟性ですね。僕は協力隊卒業後に企業へ就職という比較的少ないパターンだと思います。

大分県へ移住しカフェやゲストハウスなどをされる方も多いですが、大分県内の企業に就職をするのも一つ手ではないでしょうか?

ただ、大分県は都市に比べて企業の求人を検索しにくく、企業自体も求人の更新や発信が追いついていない現状があると思うので、地域おこし協力隊のような制度を利用し準備期間とするか、移住前に何度か大分県を訪れて県の移住相談会や県の仕事相談などの窓口を利用すると仕事も見つけやすいのではないでしょうか?

大分駅の目の前にあるコワーキングスペース「Oita Co.Lab Lounge」で仕事中

 

APUの在学中から地域おこし協力隊など地域のコミュニティーに積極的に溶け込んできた吉澤さんに、そのコツをお聞きしました。

 

吉澤:子どもの頃は人見知りでしたが、幼少期より知らない人が多い環境に立たされることが多く、いつの間にか人見知りはなくなってました。基本的に郷に入っては郷に従えと思っているので、柔軟性をもって周りに合わせることがそこまで苦ではありません。地方は特に、場所によっては人との関係が密で独自のルールがあることもあるので、柔軟性をもつことがとても大切だと思います。

多くの初めての経験や、良いこと悩むことなど色々あると思いますが、広い視野と柔軟性をもって、より良い生活・人生を楽しみましょう!

普段からご当地Tシャツが好きな吉澤さん。この日は「oita」ロゴのTシャツでした

 

おわりに

まだ移住という言葉自体が浸透していない頃から大分県への移住を実現し、さまざまなことに挑戦し続けている吉澤さんですが、大分県以外への移住は考えたこともないのだとか。現代では人間関係が希薄になりがちですが、地方にはまだ昔ながらの近所付き合いや人との繋がりを大切にする風習が残っています。一見面倒に感じても、一度柔軟性をもって受け入れ溶け込んでみることで、人の温かさに触れる機会となるかもしれません。

協力隊を始めこれまで積み重ねてきた様々な経験や知識を糧に、これからも大分県で新しい挑戦を続ける吉澤さんに注目し続けたいと思います。

WRITER 記事を書いた人

Tomoe Sato

大分生まれ、大分育ちの根っからの大分人。現在は子育てをしながら趣味の延長線でライターとして活動している。

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