取材者情報
- お名前
- 前嶋欧太郎
- 出身地・前住所
- 前住所:東京都八王子市
出身地:神奈川県大和市
- 現住所
- 中津市耶馬溪町
- 年齢
- 33歳
- 家族構成
- 5人
東京都で育った前嶋さんは、東日本大震災と自身の体調不良を機に、移住を決意し、移住先を探しました。縁あって繋がったのは、大分県中津市にある裏耶馬溪。養鶏場での就労や地域おこし協力隊を経て、パートナーと結婚し、10年目となる今、改めて原点に帰りながら自分たちがしたい暮らし、村づくりをコツコツと進めています。そんな前嶋さんに移住の経緯やこれからしたい暮らしをお聞きしました。
体調不良と東日本大震災がきっかけで移住先を探すように
高校卒業後、多くは就職か進学をする中、ただ敷かれたレールに乗るのは違うと思い、高校時代から続けていた居酒屋のアルバイトで生活は成り立っていたので特に不満がなかったのだとか。その後、精神病院の介護職へ転職。50代以上の方々がいる病棟での看護サポートを経験しました。先のアルバイトは続けながら介護職を続けていたそうです。
前嶋さん:オーストラリアにワーキングホリデーをしに行きたくてお金を貯めていたのですが、働きすぎて抑鬱状態になってしまって。2ヶ月ほど社会復帰できなかったんです。その前後に東日本大震災が起き、僕にとってはかなりショッキングな出来事でした。
徐々に回復し、社会復帰をする前に貯金を持って東日本大震災の被災地ボランティアへ1ヶ月ほど行ったのだとか。その際に暮らしの大切さを知ったそうです。
前嶋さん:衣食住と、人との繋がりに興味を持つようになったのはその時期です。放射能や社会のことについて無知だったので怯えていたし、不信感がありました。だからこそ、コミュニティの大事さと、衣食住の支え合いの大事さを感じ、移住先を探すようになりました。
友人づたいで繋がった耶馬溪への縁
ボランティアから戻り、お金を貯めるために営業職に就いた前嶋さん。その目的は「山を買うこと」だったそうです。
前嶋さん:山1つ買ってしまえば、自由な暮らしが作れると思って邁進していました。
しかし、山を買うにはいくらあればいいのかと途方に暮れてしまったのだとか。営業職や管理職になったり、支店リーダーになったりと徐々に昇進して行っていましたが、安定に興味がなく、23歳の時に仕事を辞め、カバン1つで九州に飛んできたそうです。
前嶋さん:仕事を辞めるか悩んでいた時に、沖縄に向かって徒歩で旅をした友人に再会したんです。その際に、日本をめぐってどこが一番良かったか聞いたら、九州が一番良かったと聞きました。九州は温泉でよく声をかけられるし、美味しい物が多く、風土も良いと。僕の中では宮崎と鹿児島は視野に入ってはいましたが、彼がオススメしてくれたのが大分だったんです。
思い立ったら即行動!の前嶋さん。東京から新幹線に乗り、大分へ。野宿をしながらどこか良いところがないかと聞き歩きながら探し始めたそうです。その中で、「耶馬溪」と「国東」という言葉がよく出てきてたのだとか。とはいえなかなか決めかねていた矢先に、東京の友人が紹介してくれた大分の方が、耶馬溪に移住していた方とつがなっていたことで、耶馬溪に訪れることになりました。
前嶋さん:竹田市にある久住のキャンプ場に1泊して、次の日すぐに耶馬溪に行きました。ちょうど紅葉の時期だったので、その景色が圧巻で見惚れてしまったんです。
ご縁のおかげで暮らしはあっという間に整っていく
前嶋さんが耶馬溪に訪れた頃は、今耶馬溪ではお馴染みとなっている豆岳珈琲など世代が近い移住者が始めたお店がいくつかある頃で、各所を尋ね歩いたそうです。そのまま最初に出会った移住者の家に泊めてもらい、あっという間に数ヶ月経っていました。
滞在中に家、車、仕事と順調に決まって行ったという前嶋さん。下郷農協の職員の方々や地元の方々が協力してくれたそうです。その頃、移住者自体がこれから増えるのかもしれないという気運が高まっていた頃で、町にも期待感があったのではないかと言います。
その後、養鶏場での仕事が決まり、長らく働くことになった前嶋さん。ここまで決まるのがあっという間だったと言います。
前嶋さん:若くて単身で男性というので、期待してくれたんだと思います。僕が来た頃からちょうど3年ほどは、下郷地域がとても盛り上がっていて、いろんな活動がありました。
地域おこし協力隊や仲間との共同経営を経て。
2年ほどの間、ごく身近な下郷エリアの方々としか関わらなかったそうで、もう少し耶馬溪全体を見てみたいと思ったという前嶋さん。養鶏場を手伝いつつ、もう少し土地に対して広く知りたいと思っていた頃に始まったのが、「地域おこし協力隊」の制度でした。条件が合うとわかり、早速応募し、25歳の時に地域おこし協力隊としての活動が始まりました。
最初の1年間はひたすら集落をめぐり、繋がりを増やしながら、空き家の調査をしていたと言います。2年目に入り、なかなか自分がしたいことを地域おこし協力隊ではしにくいと感じ辞めたそうです。
その後、民間所有の飲食店を仲間同士でやることとなった前嶋さん。「やまびこ」という飲食店を経営しました。しかし、なかなか複数人の想いのバランスを取ることが難しく、2年ほどやって辞めることになったのだとか。
前嶋さん:今まで飲食や営業など人に合わせて色々やってきていたんですが、養鶏場では自分のペースで出来ていたのを思い出したんです。こっちの方が自分に合っているかなと思って戻ることにしたんです。
本来したかったことに立ち戻る
養鶏場に戻り、後継していくつもりで勤務していた前嶋さんでしたが、本来何のために移住したかったのか、見つめ直す時間があったそうです。その頃、東京都にいたパートナーが仕事を辞め、耶馬溪への移住を準備している中で、パートナーと一緒に改めて衣食住を自分たちの手で作りながら、コミュニティを作ることに立ち戻りたいと考えるようになりました。
前嶋さん:養鶏場を継承していくことに迷いが出てしまったんです。そのことを上司に相談したところ、「それは辞めたほうが良い」と言われました。生半可な気持ちではやはり出来ないから、言ってくれて良かったと。やりたいことをやって良いと背中を押してくれたことが大きかったです。
移住10年目。初心に帰って村づくり。
改めて初心に帰って暮らしを作り直し始めた前嶋さん。パートナーと結婚し、移住9年目に改めて暮らしをリスタートしました。まずは家の改修を頑張りつつ、養鶏場での経験を活かし、自らが自給のための養鶏や田畑作りを始めています。朝、生まれる卵の温かさや、1年を通して手塩にかけた田畑から取れる作物の美味しさに感動する毎日なのだとか。かつて都内でスパイスカレー屋を営んでいた妻・はなえさんの料理上手も相まって、その味は一段と格別です。
そんな前嶋さんは、本来移住の目的であった「衣食住を支え合える村づくり」を本格的にスタート。田んぼを借りて「やばひかり」という無農薬&無肥料なお米づくりを仲間達を巻き込みながら始めたり、想いが近い友人と広い意味での“家族”となって移住支援や子育てを手伝ったり。目指しているのは「子どもも大人もRPGのようにお互いが楽しみながら生活に必要な仕事をし合うような村」なのだとか。
前嶋さん:見える範囲に仲間が住んでいれば、安心して子どもを時放てるし、みんなで子育てしやすいですよね。小さな活動をコツコツ続けて、空き家を譲ってもらうことも。それを今度は仲間に貸して、一緒に暮らしを作っていく。仲間が関東から移住してくれたことがあり、村づくりが徐々に本格化してきました。
また、現在暮らしている家を今後は中長期滞在できるような民泊にすべく、現在奮闘中。前嶋さんの自宅には通称「おーはなハウス」と呼ばれていて、今後これを屋号にして様々なお客様を迎えて行こうと準備しています。
前嶋さん:今も既に一年を通して色々な方々が来てくれる家なので、今後は泊まりやすくなるよう、改修を進めています。田んぼの前の空き家も使えるようになったので、それを今後は直していく予定です。裏耶馬溪は高齢化が進んでいるのもあり、使える家や田畑が廃墟になってしまわないよう、僕らの村づくりと合わせて活用していきたいと思っています。
最後に
友人を伝ってたどり着いた前嶋さんの暮らしは、下郷地域を中心とした様々な人々の温かさによって出来上がっていく様子がよく感じられる取材でした。10年目の今、今度は繋ぐ側に回りたいと、家を開き、仲間を受け入れ、手伝っている前嶋さん。紆余曲折ありながらも、移住したいと思った原点に立ち戻り実際に活動している姿に元気をもらえました。