大分移住手帖

自然豊かな暮らしに憧れてたどり着いた山国町で六助の伝承者に。

Tomomi Imai

取材者情報

お名前
堯純一
出身地・前住所
前住所:福岡県北九州市
出身地:兵庫県神戸市
現住所
現住所:中津市山国町
家族構成
2人
職業
毛谷村六助資料館館長
Webサイト
https://www.facebook.com/roksuke/

兵庫県で生まれ育った堯(タカシ)さんは、長年勤め上げた運送業を辞め、自然豊かな田舎で暮らしたいと思い、移住を考えました。地域おこし協力隊の制度を活用して中津市山国町に辿り着きました。この町で語り継がれてきた毛谷村六助の存在に惹かれ、自宅に資料館を作るほどに。移住した先の地元の文化を守り語り継ぐ側となった堯さんの移住ストーリーを伺いました。

人間関係に疲れ、移住を考える。

堯さんは、進学するために兵庫県西宮市から福岡県北九州市に移り住み、卒業後は運送関係に就職。20年以上勤め上げた会社でしたが、ハードな仕事で徐々に疲れてしまったそうです。

堯さん:かなり情熱を持って勤めてきましたが、朝も夜も働き続ける中で、どうしてもその情熱が絶やされるようなことが続いたことで、暮らし方をもう一度考えようと思いました。

そこで、友人が経営していた八百屋に転職した堯さん。1年ほど勤務する中で、また人間関係に疲れてしまう出来事が続いたことで、人と関わらない暮らしがしたいと思うようになったそうです。

堯さん:仕事をする上で友人も含めた人間関係にかなり疲れてしまって、人と関わらない暮らしに憧れるようになっていました。当時思っていたのは、山の中で犬と2人きりのアルプスの少女ハイジの中の、おんじとヨーゼフのような暮らしでした。

初めて訪れた際の景色の素晴らしさに惹かれて移住を決める。

魅了された自然環境

たまたま縁あって同じような暮らしをしたいと思っていたパートナーが見つかり、移住先を探す中で、中津市の各支所が公募していた地域おこし協力隊の募集を見つけた堯さん。中津市には縁もゆかりもなく、当時描いたイメージは「耶馬溪といえば田舎だろう」という印象だけだったそうです。

堯さん:全く土地勘が無かったので、本耶馬溪といえば人が全くいない田舎かもしれない…など想像ばかり膨らんでいて。ひとまず問い合わせてみたら「田舎なら山国町が良いですよ」と聞いて、じゃあそこに行ってみようと思ったんです。

何の情報もないまま、応募を兼ねて山国町に来た堯さん。当時の担当の方に町を車で案内され、車窓から見える自然環境や景色がとても美しくて、まさに理想の場所だと感じたそうです。

堯さん:川に沿って車を走らせる間に美しい稲穂や間近に感じる山々の風景など、自分が想像していた田舎がそこにありました。

山国町で大切にされてきた毛谷村六助という存在を知る。

自宅に作った毛谷村六助資料館。

地域おこし協力隊に応募し、採用された堯さん。任期中の家は比較的町中で借りたそう。今後長く住むかもしれない町なのだから、町のことをもっと知りたいと思い、任期中はひたすら各集落を巡っては人に会ったそうです。

堯さん:最初は、ただ町のことが知りたい思いだけで各集落を巡っていました。行けば行くほど山国町のことが好きになり、住みたい場所が増えてきました。ほとんど山の中ですが(笑)

どの集落も自然が豊かで水が美味しく、米が美味しいことが価値だと思ったそうですが、当時の担当者に「そんなことはこのくらいの田舎ならどこも同じだ、山国町にしか無いものを見つけなさい。」と言われたことが心に響いたそうです。

毛谷村六助に出会い、毛谷村へ移住をする。

自宅に作った毛谷村六助資料館。

そんな中、町の方々の間で口頭伝承されている「毛谷村六助」という存在を知り、それが“槻木(ツキノキ)”という地域の、毛谷村という集落の話であることを知りました。槻木という地域名は、ケヤキの木の洞窟から見える月があまりにも綺麗だったので槻木(ケヤキ)と書いて「ツキノキ」と読ませたそうです。

堯さん:地域おこし協力隊での3年間の任期では、卒業後に生きていく生業を見つけ、その準備をしていくことが本来の任務です。ならば毛谷村六助を学び、伝承していくことを生業にしたいなと思い、個人的に調べるようになったんです。

調べてみたら浮世絵もあるし歌舞伎もある。英彦山との関係の話もたくさんあるけれど、残っている資料が本当に少なかったのだとか。町の人と話している中で、山国町の方々はみんな英彦山が好きで、正月になればみんなで英彦山へ詣でたり、毛谷村六助の語り部が暮らしていたり、過去に役場の方も情熱を持って毛谷村六助を町おこしに繋げたいと思いつつ、達成できていなかったなど、様々な事実がわかってきたそうです。

堯さん:毛谷村六助の話は、今まで多くの方々が大切にしてきたのですが、どうやって残していけばいいのか、どうやって観光資源にすればいいのか、誰もわからず消えかけていました。

町の方々が大切にしてきた毛谷村六助が残した文化や歴史を調べ、保存し、活用していくことを任務終了後の生業にし、山国町で暮らしていくことを決めた堯さん。長く住むための家が決まったら資料館を作ろうと計画し、家を探し、現在の毛谷村にある家にたどり着きました。毛谷村六助の墓はありましたが、特に整備はされておらず、横にある家も空き家だったため、ここを借り、暮らせるように大工さんに手伝ってもらい、自ら不器用ながらDIYをおこない、住処と資料館を作っていきました。

月曜日・木曜日だけバスが来るのでバス停もある

六助を伝承していくことを生業にする。

玄関に英彦山や山国町の歴史資料を展示。

家賃はとても安く、壊さない限りは改装ができる物件として借りれた堯さん。一時期は農業を生業にしようとして試した時期もありましたが、農業で生きていくには専業にならないと難しいことを学びました。農業は自分たちが食べる分だけにしつつ、調べていくと山国町のお土産があまり無いことに気がつき、毛谷村六助を活用したいと思ったのだとか。

生業の方向性が定まった堯さんは、コツコツと調べながら自ら古文書の本屋に行って毛谷村六助に関する本を買って集めたり、口頭伝承されている内容を書き留めながら、手探りで情報を集めていったそうです。

堯さん:当初、もはや毛谷村六助は架空の人物にされかけていました。しかし、調べていくと山国町以外の町にも古文書が残されていたり、毛谷村の集落にしかない言い伝えの話があったり、とにかく収集して記録していかないと消えてしまうのでひたすら集めて残してを繰り返しています。

一番時間がかかったのは歴史の掘り起こしだという堯さん。決して歴史学などを学んだわけでもなく、歴史マニアであったわけでもありません。どちらかというと歴史が嫌いだったそうです。しかし、知っていくと町の歴史に繋がっていくことが面白いと感じ、のめり込んで行ったそうです。

堯さん:山国町の歴史は、英彦山の歴史でもあることがわかりました。山国町は英彦山日田市添田町、東峰村、みやこ町と5つに分けた中の1つです。添田町英彦山の表側で、英彦山についてとても力を入れているので多くの資料が残っていますが、英彦山から見る山国町側の英彦山の歴史に関する資料はあまり無いんです。だからやり甲斐がありますよね。

英彦山を登る方々はここを通っていくわけなので、山国町の毛谷村でやることに意味があると思っています。昔は英彦山の山道に売店が多くありましたが、ケーブルカーが敷かれたことで全てなくなりました。町を挟んでそのような前例は多くありますが、特に対策が取られていないのが現状です。山国町の先が少し見え始めている。町を維持するために何をするべきかと考えたら、最後の頼みは歴史だと思うんです。自分が生きているうちに何ができるかわからないけれど、将来の子どもたちのために残していきたいと思っています。

豊前山国六助太鼓復活、自ら学び伝えていく。

毛谷村六助に因んで町の人々が数十年前に作ったという「六助太鼓」。現在地元の若い世代が復活させ10名ほどのメンバーで活動している。練習は、槻木にある元中学校の体育館を借りて行っていて、堯さんも参加しています。当初は若い世代を応援するつもりで始めたそうですが、結果的には応援されていたのだと感じたそうです。

堯さん:毛谷村六助にしろ、英彦山の歴史を残すことにしても、1人ではできなかったことで、いろんな人達に支えられている。最近では、山国町の保育園に通う子どもが「大きくなったら六助太鼓をやりたい」と言ってるのを聞いて、とても嬉しくなりました。

コツコツと活動しながら、文化を次の世代へ伝えていきたいと考えている堯さん。地元の若い世代と協力しながら日々地道に活動しつつ、そろそろ次のステップに行くために山国町を伝えていけるお土産作りをしていきたい昨今だとか。

冬籠もりする暮らし。

中津市は縦に長く、同じ1日でも地域間で寒暖差がかなりあることが特徴的な場所です。その中で山国町はまさに雪国。そして毛谷村に至っては、車で上がっていく中で、植生が3段階に変わっていくほど、雪深い場所です。冬はどのような暮らしをしているのかお聞きして見ました。

堯さん:雪国だと思ってもらって良いかもしれません。12月後半には雪が積もり始めて、同じ中津市内の海側は全く雪が降っていなくても、私たちのところは軽トラのバンパー近くまで積もっている、というような状況です。

昔は暖を取るとしたら薪ストーブだけだったので、林業が盛んな山国町では、11月頃には薪の準備と、1ヶ月ほど籠るために保存食の準備などを進めていたそう。現在は灯油ストーブやファンヒーターがあるので、燃料だけ確保できていれば、問題ないそうです。

堯さん:雪は積もりますが、四駆の軽トラと冬用タイヤを履いていれば、大方どんな日でも買い出しのために下山はできます。バンパーより上に積もる日はもう動けませんけどね(笑)。でもそういう日は年に数日だけなので、そこまで問題ないです。暖房対策も一般的な暖を取る道具で問題ないです。慣れます。家で出来る活動の時間に当てれば、むしろよく集中できる時間が取れるので、むしろ良い環境だなと。

家を借りたらたまたま迷い込んできたことで家族になった「六助くん」

水道は沢水から取っているので、水道の凍結はそこまで問題なく、凍結したとしても雪があるので、水分の確保は問題ないのだとか。風呂は薪と灯油で動くので、停電してもそこまで影響はないそうです。周辺の木を貰えば薪は作れるし、水も沢水の簡易水道なので、自分たちで水路などの管理はありますが、節約はいくらでもできるので便利だと感じることがあるようです。

堯さん:野菜やある程度のものは自分たちで作れるし、その土地もあります。携帯電話の電波は問題なく届くし、宅急便や郵便も問題なく届くので、買い物や日々の暮らしに苦労はないですね。ただ、私たちには子どもがいないので、子供のいる家族の場合はまた違うかもしれません。

籠ることができる時間があることで、パートナーさんは服飾の制作活動に当てられたり、元々犬や動物と一緒に暮らしたかったお二人にとっては、広々とした自然の中で犬とヤギとのんびり暮らせる今の環境はまさに理想の形なのだそうです。

堯さん:山国町の中でも毛谷村は町の人でも用事がない場所なので「なんでそこに住んでいるの?」と聞かれることがありますが、私たちにとっては不便なく、森の中に篭れる今の暮らしがとても心地良いです。天気が良い日に山々を地下足袋で歩き、英彦山や周りに見える山々の景色の素晴らしさや心地良さが最高です。

そして、山々には近県では絶滅危惧種に指定されるような植物、そして鹿、猪、狸、穴熊、ウサギ、狐、鷹、ムササビなどと出会い感動は止みません。

「ハイジの世界」であり、宮崎駿の「もののけ姫」の世界でもあります。

地下足袋で歩く山々。

最後に

人里離れ、自然の中に身を置きながら、町の文化を残すことを生業にしている堯さんにとって、山国町は自然も文化もちょうど良い場所だったようです。雪深い地域だからこそ育まれた文化や環境が次世代に大切にしてもらえるよう、自ら伝承者になるという生き方に尊敬の念を抱きつつ、何よりパートナーや動物たちと日々愉快に生きている様子を伺えたことで、メディアだけでは感じきれない楽しみ方を教わった有意義な時間でした。今後は資料館を蔵に移転し、お茶ができる場所も作りたいと話してくれた堯さん。今後の展開が楽しみです。

WRITER 記事を書いた人

Tomomi Imai

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25歳でフリーランスとして独立し、多様な分野にてプロデュースやディレクター業を経験。モノコトヒトをつなぐひと。多様な伴走を得意とする。絶賛子育て中。ヨガ・サーフィン・音楽・映画・コーヒー・日曜大工が趣味。

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